今回は、孤独をテーマにした絲山秋子さんの恋愛小説「海の仙人」を紹介します。
“ファンタジー”という名を持つ役立たずの神様が登場する独特の世界観を持った中編小説です。
解釈が難しく好き嫌いも分かれそうな作品のため、書評記事を書くかどうか悩んだ本でもありました。
それでも紹介しようと決めたのは、この作品の美しい世界観を少しでも多くの方に知ってほしいと強く思ったからです。
芥川賞作家が絶妙な語り口で描く、悲しく美しい孤独の物語「海の仙人」のブックレビューをお届けします。
孤独と愛情を描いた美しい物語
主人公の河野勝男(こうのかつお)は、宝くじで3億円を当てたことで仕事を辞め、敦賀(つるが)半島の海の近くに一軒家を購入し静かな生活を送っていました。
そんなある日、“ファンタジー”という日本人離れした顔を持つ白いローブを着た40がらみの男に出会います。
ファンタジーは神様の親戚みたいな存在で見える人と見えない人がいます。
写真には映りませんし、砂浜を歩いても足跡すら残りません。
神様と言ってもご利益がある訳でも奇跡を起こせる訳でもなく、できる事と言えば孤独な者と語り合うことくらい。
河野のもとに「居候に来た」と言い、好き勝手に消えては現れ、お好み焼きを食べたり焼酎を飲んだりする役に立たないただのおじさんです。
ファンタジーとの奇妙な同居生活を過ごしていたある日、河野は海で偶然出会った中村かりんという女性と親しくなり、やがてプラトニックな交際を始めます。
そんな中、元同僚の片桐妙子(かたぎりたえこ)は、河野に片思いを続けていました。
河野は中村と交際をしながら片桐からも思いを寄せられますが、ある理由から孤独の殻にこもる生活を崩せません。
他人に甘えたり寄りかかったりせずに孤独を受け入れて仙人のような暮らしを続ける河野に、果たして幸福は訪れるのでしょうか。
3人の男女の孤独と愛情を描いた悲しく美しい恋愛小説です。
胸に沁みるファンタジーの名言
「海の仙人」はファンタジーという役立たずの神様が登場し、どんなジャンルの小説なのか見失いそうになりますが、内容は純粋な愛情を描いた恋愛小説です。
情景描写や心理描写が素晴らしく芥川賞の候補作にもなりましたが、この作品の良さは文学的に優れているということだけではありません。
ファンタジーという飄々とした神様が存在することで、浮世離れした世界観が生まれ、ひとつひとつのセリフがまさに神様の言葉のように響き、非常に奥深い内容となっています。
「寝るときは一緒でも眠りに落ちるときは独りだぞ」
「俺に救われるのではない、自らが自らを救うのだ」
このようにファンタジーのセリフはどこか意味深で心に残ります。
気まぐれで無作法で、カレーが好きでコーラも飲む神様ですが、油断しているといいことを言っており、その振れ幅は大きいです。
いつの間にかファンタジーの虜になっており、名言を読み返しては心に刻んでいる自分に気づきます。
わずか163ページに詰め込まれた美しい世界観
「海の仙人」は163ページの中編小説ですが、この少ないページ数に詰め込まれた重厚な世界観に驚かされます。
その立役者となるのは、やはりファンタジーです。
役ただずの神様で、下手をしたらファンタジーがいなくても物語は成り立ってしまうほど特に何もしません。
そもそも「ファンタジーとは一体何者なのか?」最初から最後まで明かされないため、人それぞれ解釈が異なるだけでなく、人によっては一体何だったのかわからずに終わってしまうような不思議なキャラクターです。
「物語の中に棲んでいた」というセリフから“小説の神様である”と言う人もいれば、「ファンタジーとは何なのか?」という問いに「裏側だな」と答えていることから“自分の裏側の存在だ”と思う人もいるでしょう。
ファンタジーは孤独と向き合ったときに現れる、自分の分身とも言える存在です。
河野や中村は人に寄りかからずに孤独を受け入れ、互いを尊重しながら生きています。
彼らを見ていると、孤独とは人が生きていく上で必要な最低限の荷物であり、人は孤独であるがゆえに他人を慈しむことができるのだと気付かされます。
ファンタジーをはじめ、河野や中村たちが作り出すこの作品の世界観は美しく、他の小説ではなかなか味わえません。
本が好きで、情景や心理描写を深く読み解きたい読書上級者にオススメしたい作品です。
ファンタジーの解釈が難しく好き嫌いが分かれそうな作品
「海の仙人」は、解釈が難しい作品です。
この作品の中核をなすファンタジーの存在意義を肯定的に捉えるか、もしくは否定的に捉えるかで好き嫌いがはっきりと分かれると思います。
ファンタジーは掴みどころがなく説明も少ないので、存在する明確な答えがありません。
試しにAmazonのレビューを見てみると、評論家であり作家でもある小谷野敦(こやのあつし)さんが「川上弘美の亜流である」と酷評をし、5点満点で1点を付けています。
ちなみに川上弘美さんとは幻想的な世界と日常が織り混ざった描写を得意とする芥川賞作家。
小谷野さんが「海の仙人」を酷評しているのは、やはりファンタジーという得体のしれない存在を否定しているからです。
もともと小谷野さんは「人に書けないことを書くことに小説家としての意味がある」という持論を持った方なので、そういう見方になるのでしょう。
小説の読み方や評価は人によって180度変わることはよくあることです。
私は小説というものは1つの独立した世界で、その中に入り込み主人公となって物語を旅することに喜びを感じます。
そのため、それぞれ味のある世界観を持った小説が好きで本を読み、ノンフィクションや実用書はほとんど読みません。
私が「海の仙人」を好きなのは、美しい世界観を持った作品だからです。
その世界観の一躍を担うファンタジーの存在もたまらなく好きで、この作品に対する愛着に繋がっています。
まとめ
「海の仙人」は“孤独”をテーマとした恋愛小説です。
“ファンタジー”という役立たずの神様が独特な世界観を作り出し、いつの間にか引き込まれ虜にさせられます。
決して長いとは言えないページ数でここまでの世界観を味わえることには驚かされるばかり……!
「孤独」について深く考えさせられ、ファンタジーの言葉が胸に残り、何度もページを読み返したくなります。
非常に解釈が難しく好き嫌いも分かれそうですが、私のイチオシの作品です。